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コラム
日米硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式・追悼式
2005.03.12
   

日米硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式に出席するため、3月12日(土)に硫黄島に訪問した。硫黄島は東京とグアム、サイパンを結んだ丁度中間に位置する小島である。先の大戦末期、サイパンを攻略した米軍にとっては、B29で日本本土を空襲する際の兵站補給の為なんとしても確保しておきたかった戦略地点で、日本軍にとっても本土防衛のためには絶対に死守したかった島であった。その為、この南海の孤島は史上稀にみる激戦の地となったのだ。

当時硫黄島には約21,200名の陸海軍将兵が配置されていた。米軍はサイパンからの空爆、艦砲射撃を続け、当初は数日で陥落できると考えていたが、物量において圧倒的に不利であった日本軍の将兵は、愛する家族や同胞への空襲を少しでも防ごうと命を懸けて絶望的な白兵戦を続け、米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。組織的な戦闘が終わったのは米軍が本格的な上陸作戦を開始してから1ヶ月以上たった昭和20年3月26日であった。日本側の戦死者は19,900人、戦傷者1,033人、一方の米軍側は戦死者6,821人、戦傷者21,865人であった。日本側戦死者の遺骨はその多くがまだ本土帰還を果たせないままとなっている。

現在、硫黄島には自衛隊以外、民間人は居住しておらず、民間航空機は運行されていない。このため、今回は自衛隊の輸送機で入間基地から現地に飛ぶこととなった。

入間からは日本側遺族、関係者が2機に分乗、一方アメリカ側は沖縄から民間機をチャーターしてきていた。午前11時過ぎより日米再会記念碑の前で合同慰霊式が行われた。米側は米軍が強襲揚陸艦を使い数日前より沖縄から大量に物資を運びこんでおり、普段何もないこの地で盛大に式典が執り行われた。

合同慰霊顕彰式では60年前に戦火を交えた日米双方の退役将兵、遺族、関係者らが英霊に対し哀悼の誠を捧げ、互いの恩讐を超えて日米友好の絆を強め、ともに恒久平和を祈った。式では米側から遺品の返還などが行われたが、いまだ米側に残っている遺品も多いといわれている。

合同慰霊式の後、日本側は天山戦没者慰霊碑前に移動して戦没者慰霊追悼式が執り行われ戦没者名簿の奉納などがなされた。

式典の後、陸軍兵団司令部壕跡や摺鉢山などを訪れた。地下壕内は狭い上に火山活動による地熱で蒸し暑く、食料や物資も尽き果てながらも、ここで1ヶ月以上耐え続けた往時の苦しさがまざまざと蘇って来るようであった。一方、摺鉢山は島内で唯一の高台で、米軍は当初集中的に艦砲射撃、空爆を行った場所。火口の海側はすっかり吹き飛んでおり砲撃のすさまじさを物語っている。 激戦の後、頂上に星条旗を掲げるところの像は有名である。多くの日米遺族、関係者が摺鉢山を訪れていた。しかし、慰霊式のこの日、その像の銅版が埋め込んである米国戦勝記念碑の前で誇らしげに星条旗を広げて勝ち誇ったような表情でいる無邪気な若い米国兵の姿を見ると、何ともやりきれない思いであった。

島内各地での慰霊を済ませて、午後5時頃離島、入間航空基地に戻ったのは午後7時半ころであった。このたびお世話になった硫黄島協会、自衛隊ほか日米関係者の方々に深く感謝するとともに、我々は今後この激戦の歴史が消えることのない様、深く記憶に留めおくことを誓いたい。
 

硫黄島慰霊式に参加した国会議員の皆さんと
 

日米合同慰霊顕彰式
 

国会議員団代表による献花
 

摺鉢山頂にある硫黄島戦没者顕彰碑(揮毫岸信介)の前で、新藤義孝先生(右端)、
硫黄島協会の遠藤会長、ボーイスカウトの諸君とともに。
祖父は戦後総理経験者として初めて硫黄島を訪問した。
 
 
以上
 

 
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